宗教を中国化する試みは弱さの証だ

自信のある国家なら超自然的な現象を信じようとする国民の駆り立てられるような思いをことごとく管理しようとはしない。なぜ習近平主席は国の管理下に置かれていない宗教に、ここまで気をつかうのだろうか?
雲南省 モスク

(写真出所:hilloo CC BY-SA 3.0)

2018年の年末、中国は宗教に対する攻撃を行うという、新たな醜態をさらした。ミャンマーとラオス、ベトナムという三か国との国境を接する中国南部の雲南 省 では、現地の当局により新たに3軒のモスクが閉鎖に追い込まれていた。当地の信者に対して「違法な宗教教育」を提供していたことが閉鎖の理由であった。

この3軒のモスクで行われていた宗教教育が、なぜ「違法」と判断されたのだろうか?その理由は、3軒のモスクが国家の管理下に置かれていない独立した施設であり、新しい「中国化」政策、つまり、世界の宗教を中国版の宗教に変換する取り組みを受け入れていないためだった。

習近平 国家主席は、少なくとも次の重要な4点で構成される「中国化」政策を推進している。1. 宗教をもつ者に中国の憲法と法律を奨励し、教える。2. 宗教活動の中に国旗の掲揚と国歌の斉唱を盛り込む 。3. 「社会主義核心価値観」を宗教の道徳的基盤として教える。4. 中国の文化の他文化に対する優位性を積極的に顕示する。

その結果、キリスト教、仏教、イスラム教、道教 といった各宗教は、表面的な実践のあり方は維持しつつも、教義の核は全ての宗教の信仰と姿勢に共通するありきたりな原則にすり替えたという、低レベルな宗教が出来上がる。「中国化」の結末は表面的な差はあれど、中国という国家のみを崇拝する、国に管理された愛国儀式だ。

12月31日付けのサウスチャイナ・モーニングポスト紙に掲載された記事によると、雲南省の回族が設立した3軒のモスクを現地の当局が閉鎖したようだ。別の地域では信者が勾留され、モスクが破壊されていたが、現地政府の報道官はこの情報を秘匿するだろう。雲南省のモスクが閉鎖される前に、中国北部の寧夏 回族 自治区 と甘粛省でも、回族のイスラム教徒が弾圧を受けており、モスクとアラビア語の学校が閉鎖されていた。

「中国化」政策の標的はイスラム教徒だけではない。キリスト教の教会も一連の妨害と弾圧行為に直面している。十字架や聖像が取り壊され、聖書の販売が禁止され、改訂版の聖書が印刷され、さらには、 十戒が「九戒」に変えられてしまう事態が生じている。また、検査官が教会や寺院に派遣され、厳格な政府の規則に準拠していない箇所が説教や授業に一つでもあると、信者や指導者たちは罰金や逮捕、もしくは弾圧の対象となる。

国民から支持されている国家なら、神がモーセに与えた戒めの数など気にしないはずだ。

キリスト教徒は、ローマ帝国の時代から、中世の王政時代、そして、現代の民主国家に至るまで、ヨーロッパ南西部、ドイツ帝国、スラブ語圏ヨーロッパ、中近東、インド、エチオピア、アメリカ大陸等、2000年にわたって様々な施政者に忠義を誓い、市民であった。「カエサルのものはカエサルに」というキリストの命令は、キリスト教徒における2つの領域を公式に作った。宗教と世俗の領域である。世俗の領域は国家が任を担い、キリスト教徒たちは法の下にある国家に忠誠を誓い 、敬意を表すよう促されている。

イスラム教徒もまた、過去1300年にわたり、アラブ諸国、トルコ、ペルシャ、ベルベル、インド、中国の統治者やその文化において、忠誠心をもつ市民であった。長年にわたり、数々の帝国、王国、共和国がイスラム教徒を信頼してきた。それなのに、なぜ中国はイスラム教徒を信頼できないのだろうか?

世界の主要な宗教を「中国化」する取り組みは、国際舞台において重要な一員としての地位を掌握しつつある国の行動としては、あまりにも自信と安定感に欠けていると言わざるをえない。国をまとめることに苦戦し、被害妄想と自暴自棄にとらわれた弱小国家の行動だ。

出典: BITTER WINTER/マルコ・レスピンティ(Marco Respinti)